こんにちは、管理人のメイです。
2025年8月26日放送のクローズアップ現代は、『なぜ父はわたしを殴ったのか 戦後80年・連鎖する“心の傷”』と題して、生きて帰ってこられたのに、悩み苦しみ続ける本人とその家族を取材ました。
専門家として出演した前田正治さんは、「元兵士が戦争で心に傷を負っていたとみられるのに、その支援が十分でなかった」と指摘しています。
前田正治さんは精神科の医師です。
そして、この問題の当事者でもあります。
前田正治さん自身が受けた、父親からの暴力。
また、戦争や事故・震災でPTSDを負った人々のケアについて調べました。
前田正治のプロフィール
- 名前:前田 正治(まえだ まさはる)
- 生年月日:非公開 2025年8月現在64歳
- 出身地:福岡県
- 学歴:久留米医科大学卒業
前田正治と父親
前田正治さんの父・利治さんは、福岡県北九州市出身で、1943年16歳で旧日本海軍に入隊しました。
利治さんは、飛行予科練習生として奈良県や三重県の航空隊に配属されましたが、出撃することなく、終戦を迎え、家族のもとに戻って来ました。
そして、戦後は整形外科医として、患者さんのために過ごしました。
そんな利治さんから、子供の頃殴られたと語る前田正治さん。
幼少期の記憶は、殴られたこと、そして笑った父親の顔を見たことがないこと。
父・利治さんは、終戦後、旧日本軍から帰ってきたら、人が変わっていたそうです。
お酒を飲むと泣く父。
何に謝っているのかわからないけど「すまない、すまない」と繰り返す父。
情緒不安定ですよね。
前田正治さんのお母さんが、利治さんの背中を流そうとしたとき、突然パニックをおこしたことがあったそうです。
後々わかってきたことですが、利治さんは、旧日本軍に入隊中、激しい暴力を受けていました。
日常的に暴力を受け、仲間は次々に戦地に行き、散っていく。
そんな戦争を経験し、人が変わらない方が不思議なのかもしれません。
戦地に行かずに終戦を迎え、よかったよかったと思っていましたが、話はそんな単純ではありませんでした。
前田正治さんは幼いころ、父・利治さんが怖かったし、戦争の話題にもならず、利治さんも語ることはなかったそうです。
でも、戦況が悪化し、旧日本海軍が間魚雷「回天」を開発したこと。
仲間が、本当は行きたくないのに希望して行ったことを話していた記憶があるそうです。
また、高齢になってからは悪夢にうなされることがあったそうです。
戦争の悪夢です。
父・利治は戦地に出陣する前に終戦を迎えたのですが、夢の中ではパイロットになって、太平洋で戦い、撃墜されたと。
この空想にずっとしがみついていたそうです。
生きて帰っても地獄
新聞やテレビで見聞きするのは、出陣し、子供や兄弟・父親を亡くす話が多いです。
仲間を失い、いつ自分も戦地に行くかわからない、精神的に追い詰められ、生きて終戦を迎えた人の苦しみを知る機会は少ないです。
自分は生き残ってしまった。
戦い、散りたかった。
生きて帰れたのに、ずっと悩まされ続けるなんて、悲劇です。
そしてまた、その家族を持つ人たちの声も聞くことはありませんでした。
終戦後、生きて帰ってきてくれたことにたいそう喜んだ家族も、暴力で苦しめられるなんて、想像もしていませんでした。
利治さんは、2014年に87歳で亡くなりました。
前田正治さんは幼い頃、利治さんに殴られ、嫌悪感でいっぱいでしたが、最後は仲の良い親子だったそうです。
父を変えてしまった戦争について、当時何があったのか、息子として精神科医として語り継がないといけないと思ったそうです。
私も、生還者が生きて帰ったことに罪悪感を持っているなんて思ってもいませんでした。
そして、その家族も苦しんでいるなんで、想像すらできませんでした。
戦後80年の今年、戦争の後遺症が現在までも続いている現状について、もっと知らなければと思いました。
前田正治の経歴
前田正治さんは、父親への反発もありましが、同じ医師を目指しました。
そして、精神科医となり、活躍しています。
- 1984年3月久留米大学医学部卒業
- 1984年4月~久留米大学医学部精神神経医学教室
- 1986年4月~筑水会病院
- 1987年4月~堀川病院
- 1988年4月~福島県立医科大学健康調査部門部門長
- 2017年2月~福島県立伊賀大学主任教授
- 2025年8月現在ふくしま心のケアセンター所長
えひめ丸沈没事故
2001年にハワイ沖でアメリカ軍の原子力潜水艦が衝突し、水産高校の生徒など9人が亡くなった事故です。
この事故の生存者の心のケアを前田正治さんが担当しました。
生き残った生徒たちはフラッシュバッグや不眠などの症状に苦しみました。
その中でも一番の問題は「生き残ったという罪悪感」
感情は自殺やうつに直結する可能性があり、大変危険です。
前田正治さんは、地元の医療機関や保健所と協力して、
- 個人カウンセリング
- 家族へのサポート
- 薬の処方
を行いました。
その中でも、”みんなが集まって話せる場「デイケア」”を作れたのが良かったそうです。
事故の生存者である生徒たちは、不登校になっていましたが、「デイケア」に集まり遊びやスポーツを通して、将来のことをじっくり考えることができました。
事故から3年2か月後の調査では、PTSDの診断は0人。
そして、事故から10年後、社会人になった生徒から名刺を渡され、前田正治さんは感銘を受けたそうです。
生還した生徒たちは、事故のことを忘れたわけではありません。
「事故はやむを得なかった」と、自分を許せるようになったんだと前田正治さんは分析します。
そして、前田正治さんは地域が協力して治療することが大切と説きます。
宇和島には、PTSDの専門家はいなかったけど、地元の保健所や民間病院、学校、行政が連携できるすばらしい土壌があったから、生徒たちが回復したんだと。
東日本大震災
東日本大震災はえひめ丸の事故から約10年後に起きました。
津波被害は、えひめ丸と重なるところがあるそうです。
えひめ丸とアメリカの原子力潜水艦がぶつかり、沈没するまで数分くらいです。
津波が押し寄せてきて、波にのまれるのもあっという間の出来ことです。
共通するのは、助け合っていたら、みんな亡くなっていた。
だから、生還者・生存者は「生き残ってしまった」という罪悪感を持ってしまいます。
東日本大震災から14年経った現在も、PTSDで悩まされる人が大勢います。
前田正治さんは、「時間
PTSDとは
PTSDとは、大きな事故や災害などの記憶によってもたらされる心的外傷後ストレス障害のことです。
PTSDという病気は、大きく三つの障害に分けられ、
- 情緒面。例えば恐怖や記憶がよみがえってしまうこと。
- 自律神経系の問題。心臓がばくばくするなど。
- 物事の捉え方の問題。自分はだめな人間だとか、世界に対する安心感がなくなってしまうとか。
3番目がPTSDの最大の特徴です。人々を苦しめている症状だと言われています。
精神科医前田正治のプロフィール、父からの暴力とPTSD【クローズアップ現代】まとめ
前田正治さんは、自身が父親から受けた暴力を口外することに躊躇していましたが、精神科医になったことで語り継ぐ必要があると思い、当時の話をするようになりました。
戦争体験はつらい過去です。
生きて帰れたのにそこには罪悪感が占めるなんて、苦しすぎます。
戦って散った方がいいと思わせるほどの精神的ストレスは想像を絶します。
また、その家族の苦しみも表には出ずらかったです。
特攻隊の話も悲劇ですが、現在も続いているこの悲劇が公に語られない、公表されないのもまた問題です。
今回のクローズアップ現代の放送を通じて、現在も戦争の後遺症で苦しんでいる人がいることを知ってほしいと思いました。